何のために書くのか

いろいろやりあったりその他いろんな所の記事を読んだり。で、考えたり思い知らされたり考えさせられたり、そんな事を取りとめもなく書き付けてみる。

クラシック演奏家は先人の創り出した作品を自分と言うフィルターを通して表現する。このとき「自分」は表現を享受しつつ表現している。
何を表現しているのか?作曲者の魂、そしてその魂に共感する自分。「作品を通して自分を表現する」よく聞く言葉だけど、何か違和感を感じる。何故?自分を表現したいなら自分の語法を使うべきだ、と感じるからか。
管弦楽曲マンドリン合奏に編曲して行為には自分は否定的である。何故か?音楽の三要素として「リズム」「メロディー」「ハーモニー」なんて挙げられるが、この3つが必須なわけではない。と同時にその三要素だけで出来ているものでもない。管弦楽が持つ語法をマンドリン合奏に変換する際、多くのものが欠落する。ダイナミクスは人数を増やせばよい。メロディーもハーモニーも変わらない。管弦楽管弦楽である所以、すなわち管と弦の会話がそっくりなくなってしまう。構造を捨て去ってもメロディーは残る。メロディのみに共感するのではなく、その構造そのものに共感するのではないのか。
「楽しければいいじゃん」的主張に何か反発してしまうのは自分が共感しているものを汚されていると思うからか。

バンドの時はどうだろう。コピーバンドでのライブ経験はないのだけど。クラシックの時とは違う意識があるな。何故だ?構造的な物への共感ではなく、メロディ自体への共感だからか。しかしそれでも作曲者の魂とその魂に共感する自分を表現したいのだろう。歌詞のある曲をインストでやるのはどうなんだろう。歌詞があってこそ、その作品が成り立つとすればそれはその作品への冒涜なんじゃないだろうか。

作曲者としての自分。自分の魂を削りだす。その魂のかけらに共感してくれる誰かを望む。それが他人にとって毛ほどの価値しかない、としても。

そうか。どうやってもそこに自分の魂が存在するのか。

ブログを書くのもそうか。何かに共感し、あるいは反発する。だから書く。自分の魂のかけらを残す。それが表現の動機?

そうか。だから何の検証もされてない文章を読んだとき反発してしまうんだ。表面をなぞっただけのような文章。文章そのものは正しくても、その裏に魂が感じられないからだ。


他人の書いた文章を好きになってしまうのは何故だろう。好きっていうか殆ど恋心になってしまう事もあったりするのはいったい何なんだろう。その文章にもっと触れたい、と思うのか。いや、そこに見える魂にもっと触れたい、と感じるからだ。




ああ、本当に取り留めないや。