猫殺しの正当化

鶏もゴキブリもムカデも殺してますよ、と。
http://www.kochinews.co.jp/0608/060826headline02.htm
うわぁ同郷なのかよ

 坂東さんは高知新聞社の取材に対して、「私は、子猫を殺しているだけではない。鶏も殺して食べてもいる。ムカデも、蟻(あり)も、蚊も殺している。生きる、という行為の中に、殺しは含まれています。それは、高知の自然の中に生きている人たちにとっては自明の理ではあるでしょうが、都会生活の中では、殺し、という面は巧妙に隠されています。今回のエッセーは、生と死、人にとって、さらには獣にとって生とは何か、という一連の思考の中から出てきたものです」とコメント。

この人の言っていることは「蟻を殺すのが有りなら猫を殺すのもありでしょ?なんか文句ある?」と言う開き直りにすぎない。「蟻を殺す」から「猫を殺す」にはつながらない。

私は確かに彼女の言う「自然の中」で暮らしてきた。夏場は蚊取り線香をつけてたし家によってはハエ鳥紙もおいてあった。部屋に侵入してきたムカデはつぶしてた。
それらの行為は確かに「生きる」という行為の中で行われていた。
だからそういう面では彼女の言い分は半分正しい。

実家でも猫は飼っていた。生まれてきた子猫は里親が見つからなければ捨てていた。
言い訳をするなら、当時は避妊手術がうちには簡単に手を出せる代物ではなかった、捨てた地域は山しかないから食べ物には困らないだろうと判断していた、運がよければ誰かに拾われる可能性もあると思っていた(山なのに?)、などなど。今では心が痛む。


殺していい生き物と食べていい生き物と可愛がる生き物を分けるのは人間のエゴだと言うことは百も承知だ。
しかし「今飼っている猫の気持ちは考える、だが生まれてきた猫の気持ちは考えない」というのはエゴを通り越して異常だと思える。そう考えるならば何故「今飼っている猫が子供を埋めなくなるのは可愛そうだ。生きている意味などない。 だ っ た ら 殺 し て し ま え」とならないのだ?
もっと言うなら「あいつが生きていてもしょうがない。殺してしまえ」も可能になる。それが許容できるのか。

同じ自然の中で暮らしてきて今思うのは「他者の死によって自分が生かされている。ならば他者の生も最大限まで尊重しよう」と言うこと。

あんまり同郷だと思われたくないな。高知では猫を平気で殺す、などと思われたくない。